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まず昔の日本人もそうですが、古代から自我(主)は魂であり、身体(従)は入れ物という考えがあります。私が分かった事実は心が魂と身体を繋ぐものであり、心が神経(光、電気の通り道)を通して身体をコントロールしているということです。たしか脳と心の量子論という本には水と光子の量子的結合状態が記憶(こころ)を作ると書いてあった気がします。

ここで納得できる根拠はスポーツしかり、仕事しかり、ダイエットしかり、我々は思うように脳と身体が言うことを聞かないことを体感していると思います。

眩しければ瞳孔は閉じるし、勝手に尿意は訪れるし、転べば痛みを勝手に感じます。痛みや感情を自由にコントロールできるわけでもありません。

しかし、だからこそ心身のトレーニングや鍛錬をして目標達成を試みるのではないでしょうか。

そして我々は恐怖や焦り、怒り、嫉妬など基本的感情として誰もが生まれつき持っています。つまり初めから基本機能が備わっている肉体という時点で我々が自らの意思で想像し所有しているものではなく、すでにある機能を借りているという意味になるわけです。

つまりこの二点からも我々が自分のものであり、自分の思い通りに動いていると思っていた肉体は自分のものではなく、思い通りに動いてくれないことに気づくべきなのです。

だから習慣を整えることで、自分が思い通りに身体が動き、脳が思考してくれるように練習する必要があるわけです。

現代ではモータースポーツ、古代では騎馬が分かりやすいですが、練習により人馬一体になることを目指すわけです。そして本当の自分が求めている通りに動くこと、つまり身体と魂が人馬一体になることを神人合一と言います。

そして食べ物やスマホなど目の前の刺激や欲で動くことが癖になっていると身体と脳が持っている基本機能の範疇でしか動かないのです。そうなるとその人の人生はより時間軸が長く計画して粘り強く行動する他者の支配下にある人生で終わることを余儀なくされるわけです。

果たしてこの状態が自分の人生を生きているというのでしょうか?

そして何度でも言いますが、すべては習慣で人生が作られています。